沿革
伝統と先進性の共存
ドイツ銀行は1870年、産業革命をほぼ達成したドイツのベルリンで産声を上げました。以来、欧州や世界の時代の変遷に大きく左右されながらも、常に先を見据えて140年の歴史を歩んできました。2度の世界大戦や国家社会主義の浸透、戦後の占領下での復興、そして東西ドイツ統一など、私たちを取り巻く社会・経済状況は目まぐるしく変化しました。こうしたなかでドイツ銀行は、創業以来、「海外取引を支援するため幅広い金融ビジネスを推進する」というビジョンを明確に据え、常に変わる社会情勢やビジネス環境にチャレンジし続けてきました。
21世紀の新しい扉を開けたいま、私たちが確信しているのは、過去の経験に学びながらも時代の変化に立ち向かっていくことの大切さ。それが新たな可能性を生み出す原動力になるということです。この伝統と先進性を重んじる精神は、ドイツ銀行グループの先人たちが残してくれた教訓なのです。
Show content of ドイツ銀行のはじまり
ドイツ銀行が設立された1870年、ドイツの銀行業界は大きな過渡期を迎えていました。産業化の進展にともない産業育成のための融資の必要性が急速に高まり、伝統的な銀行業務に対して新しい時代の要請に応えることが求められたのです。
ベルリンには、進取の精神でこうした時代の変化に立ち向かおうとしていた個人銀行家が存在しました。その代表的な人物がアーデルベルト・デルブリュック、ドイツ銀行の「真の創始者」です。
ドイツ銀行は1870年1月22日にその設立を承認され、同年3月10日にはプロシア政府から銀行業を営む免許を受けました。これは同政府が共同出資銀行に出した最後の認可となり、同年、認可制度は廃止されました。
ドイツ銀行は設立当初より国際業務を重視していました。「当行の目的は、幅広い銀行業務を営むこと、特にドイツとその他のヨーロッパ諸国間および海外市場との取引を促進し、容易にすることです。」 なかでも、当時、ドイツの貿易取引の決済業務で他を圧倒していた英国の銀行への挑戦が直接的な目的でした。ドイツ銀行は1871年から73年の間に、ブレーメン、横浜、上海、ハンブルク、ロンドンの5つの支店を開設しました。
ドイツ銀行という名称には、「ドイツと諸外国間の取引を支援するため、幅広い銀行ビジネスを推進する」という創業者たちの思いが込められています。しかしながら実際には、海外との取引にかかわる銀行業務はさほど浸透せず、設立間もないドイツ銀行は、他の業務に活路を見出すことになります。
ドイツ銀行は創業初年度より、「現金」による預金の受け付けを始めました。今日ではあたりまえのこの業務も、140年も前のドイツ銀行業界にあっては、画期的なことでした。ドイツ銀行は預金取り扱い業務に安定的な経営基盤を見出したのです。設立当初、2人で構成されていた取締役会メンバーの一人であり、ドイツ銀行の歴史上欠くことができない存在であるゲオルク・フォン・ジーメンスは、同業務の拡充に力を注ぎ、ドイツ銀行の資本基盤を強化しただけでなく、同業務がドイツ国内でビジネスとして確立するうえで大きな役割を果たしました。
Show content of 草創期の成長
ドイツ銀行は設立当初、ベルリンのフランツォジッシェ通り21番地にあるごくありふれたビルの1階にオフィスを構えていました。
1年ほどで、総勢50名ほどの社員はベルリン証券取引所の近くに移転しました。1876年には、ベーレン通り、マオアー通り、フランツォジッシェ通りの3つの通りの交差点に、新しい本社ビルの建設を開始。新社屋を結ぶ「2つの橋」の景観をもつこの建物は、のちにドイツ銀行のシンボルとなりました。
ドイツ銀行は、設立後数十年で急速に業務を拡大しました。1880年代に企業の発起・設立にかかわる業務の重要性が高まり、1890年代にはその速度が加速していきました。こうしたなか、ドイツ銀行は、ドイツにおける電機重工業の進展や鉄鋼業の基盤確立に大きな役割を果たしました。国内において経営基盤を安定させたドイツ銀行は、国際業務にも取り組み、バグダッド鉄道建設にかかわるプロジェクトなど、その後何年にもおよぶ取引を遂行しました。
Show content of 20世紀を迎えて - 本格的な支店ネットワークの構築
ドイツ銀行は1890年代後半、新たな拡大期を迎えました。大手地方銀行との提携を進めることで、ドイツの主要産業地帯への足がかりを築きました。しかし、合併による集中と再編が進んでいた当時のドイツの銀行業界にあって、ドイツ銀行は独自の支店網を急速に拡大するには到りませんでした。1886年のフランクフルト支店、1892年のミュンヘン支店に続き、1901年にライプツィヒとドレスデンに支店を開設しました。
一方、諸外国との取引促進を支援することの価値をいち早く見据えていたドイツ銀行は、1886年、外務省の働きかけを受け、ドイチェン・ユーバーゼーイッシェン銀行を設立しました。さらに3年後の1889年には、新設されたドイチェ-アズィアーティッシェン銀行に資本参加もおこなっています。
フランクフルター新聞が「ドイツ銀行は世界最大の銀行」と報じた矢先の1914年春、躍進を続けていたドイツ銀行に転機が訪れました。第一次世界大戦の勃発により、それまで成功へと前進していた勢いは衰え、大戦後には、銀行業界を取り巻く環境は大きく変化していました。ドイツを激しいインフレが襲い、ビジネスの回復には程遠い状況でした。
第一次大戦直後は、清算の時代でした。海外資産の大半を失い、その他の保有資産も売却を余儀なくされた戦後期。こうしたなかにあっても、その後長期にわたって大きな影響をもたらす新しいビジネスが生まれました。ドイツ銀行は、映画制作会社ウファの設立およびダイムラーとベンツの合併に大きな役割を果たしました。
Show content of 最強のライバルとの合併
ドイツの銀行業界における集中と再編の動きは1920年代も続き、1929年、ドイツ銀行とその最大のライバルであったディスコント-ゲーゼルシャフトの合併でピークを迎えました。その後8年間にわたり、「ドイチェ・バンク・ウント・ディスコント-ゲーゼルシャフト」の名称で業務をおこなったこのドイツ最大の銀行は、1937年になって「ドイツ銀行」に名称を戻しました。
両行による合併の背景には、コスト負担の増加と銀行業界で進んでいた集中への動きがありました。ドイツ金融業界で数十年間にわたって最大の出来事となった両行の合併は、世界経済と銀行業界が直面していた危機を緩和するうえで絶好のタイミングでおこなわれたと言えます。
流動性の不足に加え、短期外国債務の存在、借り手側の返済能力の欠如、さらには硬直的な政府機関の介入によって、ドイツ銀行業界は20世紀最大の破滅的状況を迎えていました。戦前の「黄金時代」はすでに遠い記憶となり、銀行業界全体が国家権力に服従する時代が1945 年以降まで続きます。
Show content of ナチス政権下のドイツ銀行
ヒトラーが政権を握った1933年、ドイツ銀行にとって暗黒の時代が始まりました。この後、12年間におよぶナチス政権のもとで、ドイツ銀行は奈落の底に落ち、大きく翻弄されることになります。当時の当行主要メンバーは、国家社会主義のイデオロギーに賛同したわけではないものの、1931年の銀行恐慌の後遺症とも言える無力感とナチス政権下の反銀行主義の強い影響を受け、何ら抵抗することなく人種差別的政策に迎合していきます。新政権によってユダヤ人と見なされた3人の取締役会役員は、1934年までに職を追われ、唯一残っていた監査役会役員も1938年にはその地位を失いました。
ユダヤ人排斥の動きは、ユダヤ人企業の「アーリア化」とともに進められ、1938年にピークを迎えました。この年、一連の法規制によって、ユダヤ人がいかなる経済活動にかかわることも禁止されたのです。ドイツ銀行は、仲介業者あるいは資金の貸し手として、少なくとも 363件の「アーリア化」に関与しました。
1938年、ナチス政府がユダヤ人資産の監視・凍結を大規模に開始したのにともない、ドイツ銀行のユダヤ人顧客の資産も影響を受けることになりました。終戦までに、ほとんどすべてのユダヤ人が保有する資産や預金はドイツ帝国に移管されました。しかしながら、法令という鎧をまとった、国家による略奪ともいえるこうした一連の行為に対して、抵抗を示す者はいませんでした。実際、国家に抵抗するには危険が大きすぎ、たとえば、ドイツ銀行幹部2人は、「敗北主義的」な発言をしたという理由だけで、1943年に処刑されました。
ドイツ帝国のオーストリア、チェコへの積極的な拡大路線を受け、ドイツ銀行も第2次世界大戦の勃発前から、同地域の支店網を拡充し、また現地行の買収をおこないました。こうした動きは大戦開戦後も続き、西・東南ヨーロッパの占領国家地域を中心として、事業基盤を拡大していきました。
国際的なネットワークと中立国トルコに支店を持っていたドイツ銀行は、1942年から1944年にかけてドイツ帝国の金取引に関与し、ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)から購入した4,446kgの金をイスタンブールで売却しました。現在、ナチス政権下のドイツ銀行史を研究している独立委員会の調べでは、このうち少なくとも744kgがホロコースト犠牲者の所有であったことが明らかになっています。しかし、当時、当行がその事実に気づいていたかどうかは、明確な答えが出ていません。
アブラハム・バルカイ(エルサレム)、ジェラルド・D・フェルドマン(バークレー)、ロター・ゴール(フランクフルト)、ハロルド・ジェイムズ(プリンストン)、ジョナサン・シュタインベルク(ペンシルバニア)の各メンバーによって構成されている「ドイツ銀行の歴史を検証する独立委員会」は現在、ドイツ銀行カトヴィッツェ支店(ポーランド)の当時の活動状況について調査を進めています。
カトヴィッツェ支店とその準支店が、アウシュビッツでIG-ファルベン工場と強制収容所の建設に携わっていた企業に融資していた事実が、最近、明らかになりました。シュレーズィッシェン地方にあった当行支店の融資情報は戦後、ハノーバーに送られ、長らく記憶の外に置かれていましたが、1998年、ナチス時代のすべての資料がフランクフルトとベルリンに集められたことで、それらの資料は注目を集めることになりました。
当行は倫理的、道義的責任を果たすことの重要性を認識し、絶えず過去のあやまちを振り返り、真摯な態度で批判を受け止める努力を続けています。この一環として、「回想、責任、そして未来」というスローガンのもと、ドイツ企業および政府が共同設立した基金への参加をおこなっています。
Show content of 創立75年目の危機
創業75年を迎えた1945年、ドイツ銀行は存亡の危機に立たされていました。第2次世界大戦の終結により、旧ソビエト地帯で起こったように国有化の道を選ぶか、地域レベルで細分化の道を選ぶか、選択を迫られたのです。
結局、1947年から48年にかけて、ドイツ銀行は10行に分割されました。この際、「ドイツ銀行」の名称を残すことは許されませんでした。
ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の誕生後、こうした状況は変化していきました。ハーマン・J・アプスの多大なる貢献によって、ドイツ銀行は統合に向けて大きく前進しました。まず1952年に承継された10行は、ハンブルクのノルトドイチェ銀行AG、デュッセルドルフのライニッシェ・ヴェストフェーリッシェン銀行AG、ミュンヘンのズュードドイチェ銀行AGの3行に統合されました。そして、1957年には、これら3行が統合し、ドイツ銀行の再生が実現しました。
ドイツ銀行にとって、1950年代はその後の銀行業務の命運を決めるうえで重要な時期となりました。1950年代末にリテール分野の基盤を大きく強化するまで、商品戦略の果たす役割は比較的小さく、代わりにドイツが債務国から債権国に移行したことを背景に国際的な資金調達業務の重要性が高まっていました。1958年、ドイツ銀行の支援のもと、南アフリカのアングロ・アメリカン・コーポレーションがおこなった外貨建て債券の発行は、外国企業のドイツ資本市場への復帰を表す象徴的な案件となりました。
Show content of グローバルな総合金融グループへ
1970年代、ドイツ銀行は国際業務の基盤を大きく拡充しました。当行取締役会会長としてアプスの後を引き継いだフランツ・ハインリッヒ・ウルリッヒの強力なバックアップのもと、グローバルな金融機関としての地歩を固めていきました。海外支店の設立はこうした当行の成長を支える要因のひとつとなりました。さらに、金融市場の変遷やそれを支える技術の進歩、そしてイタリア、スペイン、イギリス、アメリカにおける大手銀行の買収などを通じて、ドイツ銀行はこの25年間で大きな変貌を遂げていったのです。
多数のグループ企業および関連会社を傘下にもつドイツ銀行は、ユニバーサルバンクとして幅広い金融サービスの提供をおこなっています。そのサービスは、預金・貸付業務はもちろん、証券発行をはじめあらゆる形態の投資銀行業務、資産運用業務、外国為替およびデリバティブのトレーディング業務など多岐にわたっています。
欧州統一市場成立への動きを受けて、当行は早い時期から支店ネットワークの拡充を通じた対応を図ってきました。現在では、欧州を拠点とするグローバルな総合金融機関として、世界の主要金融市場すべてにおいてその地位を確立しています。